あやまち
とある土曜の昼下がり、映画の上映時間を待つべく、ドトールで読書。ゆったりとした贅沢な時間に心も安らぐ。
すると、ディレクターからLINEが。
僕に任せていた編集前の準備が無茶苦茶なお陰で、2日間徹夜で編集した時間が無駄になったという内容のLINEがきた。
一気に嫌な汗がジワリと出た。
やっちまった。失敗の部類としてはかなり大ごとなので電話やLINEではダメだと思い、緊張と吐き気を覚えつつ会社へ謝りに行く。
つくづくクズだと思うのだが、どうにか人のせいにする方法はないかと、会社へ向かう道中、ずっと考えた。
失敗した時に自分の嫌な部分と向き合わないといけなくなる。余裕のない時は、やってしまった後に、自分の行動や心理の醜さにギョッとしてしまう。
だめだなあ。
とりあえず、会社に行って謝りました。
同様に確からしい
デキる男は靴の手入れが行き届いていて高級感のあるものを履くと昔、何かの本で読んだ。
1ヶ月ほど、穴の空いた黒のスリッポンを毎日履き続けている僕は、どうやらデキる男ではないようだ。
デキる男は時間を無駄にしない。
僕はと言えば、無駄な時間を過ごす事は得意である。高校の頃の授業は常にぼーっとしていた。熱心な先生ほど僕と先生の温度差からか、そんな僕が目につくようで、よく注意された。
暇を持て余した僕は授業中、縦横5ミリほどのサイコロ型練り消しを作りひたすら転がしていた。それぞれの面に割り振った1〜6のナンバーのどれが出たかを記録していく。「何をやってるの?」と聞かれれば、「同様に確からしい、事を調べているんだ」と答えた。
確率のサイコロを使った問題文の最後に「同様に確からしい」という文句が決まってつけられていた。ある事象が起こる可能性や確率が等しいという意味だそうだ。
僕はこの文言が腑に落ちなかった。とどのつまり、平等なのか不平等なのかてんでわかんねえじゃねえか。この疑問自体が的外れなのかもしれない。
そんな僕をよそに、教室のデキる男たちは、確率の問題を処理していた。
大学雑感
大学は法学部に入ったけれど、気質からみたら文学部だったのだろう。受験生だった僕は「文学部じゃあ就職口が無いだろうなあ」と知ったような事を考え、法学部を受験した。
入学後もまじめに勉強した。一方で、法学部生のキザさと言うか、薄気味悪い意識の高さにはどこか冷めた目で見ていた。大学生活では次第に、夏目漱石やドストエフスキーなどの小説に耽溺するようになった。その頃から仲のいい文学部の友だちができた。
法学の勉強をすればするほど、教室からノートと六法を抱えて走り回る秀才たちを見て嫉妬や劣等感は増していった。一方で、僕は彼らを羨望の眼差しで見ていたのだと思う。そんな矛盾した気持ちを整理することができず、モヤモヤした憂鬱を抱えながら生活していた。
それでも院に進んで法学を続けようと思っていた。ただ、そう思えば思うほどこれでいいのか?という青臭い疑問は深まり、結局、院に進む事を辞めて就職することにした。
その頃自分は友達に相談もせず一人、孤独に悶々としていた…
くどくど書いてきたが一言で言うと法学を続けることに「ひよった」というのが適切なのだろう。
でも「ひよった」だけでは言い切れない何かがあるのだとも思うのだ。
「楽しい、苦しい、大好き、キモい、恥ずい…」こんな単純な言葉で説明できてた18歳までとは明らかに違う自分になってきた。
「楽しいけど不安…」なんだか対義語が常にセットになっている感覚がつきまとう。思春期過ぎても20代は20代で青臭いよく分からない気持ちを抱えるのかな。
肉
いきなりステーキに行ってきた。
かなり美味かった。